ハリー・ワーナー(Harry (Harold) Morris Warner、Hirsz Mojżesz、1881年12月12日 - 1958年7月25日)は、映画会社ワーナー・ブラザースの設立者の1人。後に生まれた兄弟、アルバート(エイブ、1882年 - 1967年)、サム(サミュエル、1887年 - 1927年)、ジャック(ジェイコブ、1892年 - 1978年)と共に1923年ワーナー・ブラザースを設立。アメリカにトーキー映画時代をもたらした。
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青年期[]
ヒルシュ・アイヒェルバウム(Hirsch Eichelbaum)として、ロシア帝国領ポーランドクラスノシェルツ村(Krasnosiel, 現・マゾフシェ県マクフ郡)の、ポーランドのイディッシュ語(ユダヤ系の言語)を話す環境に生まれた。
家族はアシュケナジム系であり、靴屋・商人であった父ベンヤミン・ヴァルナー(Benjamin Warner, 恐らくもとはヴァルナ Varna あるいは ヴロナ Wrona=烏)は、東欧系ユダヤ人で、1876年にペルル・レア・アイヒェルバウム(Perl Leah Eichelbaum)と結婚し、3人の子を儲けた。1888年に父が靴商売のためにメリーランドのボルティモアへ渡った。その翌年に、母、兄弟と共に父のいるメリーランドのボルティモアへと渡った。その際にワーナーに姓を変える。 しかし、ボルティモアでの靴商売での生活は貧しいものだった。そこでベンヤミンは友人の助言からビジネスを変え、家族をカナダへ移住させた。その時に弟、ジェイコブが生まれたのであった。その後カナダからボルティモアへ戻り、オハイオ州ヤングスタウンへ移住したのであった。
1899年にはハリーは弟のアルバートとビジネスを始めた。彼らは自転車店やボーリング場を始めたが、ボーリング場は閉鎖に追い込まれ、最終的に彼は地元の精肉店で働く事となった。
映画ビジネス[]
1903年にハリーの兄弟、アルバートとサムがオハイオのカーニバルで『大列車強盗』を展示する事となった。それを機にハリーは自転車店を売却し、映画ビジネスの仕事へと移った。自転車店を売ったお金で彼らはペンシルベニア州でカスケード劇場を設立。成功後、彼らは2番目の劇場を購入することができた。
1907年、3兄弟は映画産業事業をさらに拡大し、ペンシルベニア州で15の劇場を購入した。そしてデュケイン・アミューズメント・サプライ・カンパニーを設立し、ピッツバーグのダウンタウンにあるベイクウェルビルにオフィスを借りた。ハリーはサムをニューヨークに送り、ピッツバーグの交換会社のために映画を購入して発送させたが、彼とアルバートは事業を運営するためにピッツバーグに留まった。1909 年、兄弟はカスケード劇場を売却し、バージニア州ノーフォークに 2 番目の映画交換会社を設立した。ハリーは弟のジャックを会社の一員にすることに同意し、サムの助手として彼をノーフォークに送った。トーマス・エジソンの映画特許会社の出現により、ワーナーの映画会社は深刻な問題に直面し、配給業者に法外な料金を請求し、1910 年に家業をゼネラル フィルム カンパニーに「現金 10,000 ドル、優先株式 12,000 ドル、4 年間の支払い総額 52,000 ドル」で売却した。
事業売却後、4兄弟は、独立系映画製作者カール レムリーの独立映画会社と提携し、彼のピッツバーグ フィルム エクスチェンジ部門から映画の配給を開始しました。1912 年、兄弟は映画「ダンテの地獄」で 1,500 ドルの利益を上げた。この成功を受けて、ハリーと兄弟はレムリーと決別し、独自の映画制作会社を設立した。彼らは新しい会社をワーナー・フィーチャーズと名付けた。ワーナー フィーチャーズが設立されると、ハリーは弟のアルバートと共にニューヨークにオフィスを取得し、サムとジャックをサンフランシスコとロサンゼルスで新会社のフィルム エクスチェンジ部門を運営するよう派遣した。1917 年、ハリーはジェイムズ・W・ジェラード大使と、彼の著書「My Four Years In Germany」を映画化する契約を交渉することができたときに、スタジオのためにより多くの資本を獲得した。
「My Four Years In Germany」のヒットを受け、兄弟はカリフォルニア州ハリウッドの近くにスタジオを設立することができ、サムは弟のジャックとともに制作の共同責任者となったもし利益を生み出すためには自分たちで映画を作らなければならないと確信していたが、 1919年から1920年の間、スタジオは利益を上げることができなかった。当時の銀行家、モトリー・フリントは、当時のほとんどの銀行家とは異なり、反ユダヤ主義的ではなかったが、兄弟たちの借金返済を助けた。その後、4人の兄弟はスタジオをカリフォルニア州カルバーシティからハリウッドのサンセット大通り地区に移転することを決めた。
この時、ドラマ映画「Why Girls Leave Home」で無事回復し、その監督のハリー・ラプフが映画プロデューサーとなった。1923年4月4日、『ゴールド・ディガース』シリーズ1作目『百花笑えば』の成功により、正式にワーナー・ブラザース・ピクチャーズが誕生したのであった。この時ハリーは初代社長、アルバートが財務責任者、ジャックとサムが制作共同責任者に就任した。
ワーナー・ブラザース設立時[]
トーキー映画の普及まで、スタジオではリンチンチンというシェパード犬をスターにし、『極北の天地』でデビューさせていた。設立時、末弟ジャックは映画ビジネスをよく思っていなかったが、リンチンチンのデビューで心を改め、彼が幾つかの映画の製作総指揮に関わるきっかけとなった。脚本家ダリル•F・ザナックはリンチンチン用の脚本を手がけ、1年間でスタジオの半分の長編作品を作った。ザナックはその後1928年から1933年までスタジオの製作総指揮を務めることとなった。
映画スタジオ設立後、スタジオは100万ドルものの借り貸しが分かり、ペンシルベニアにある40もの劇場を買収した。1924年にはサイレント映画結婚哲学』と『ボー・ブラムメル』で大成功を収めたが、ハリウッドの3社(パラマウント、ユニバーサル、ファーストナショナル)にも及ばなかった。そこでハリーは新聞広告費を50万ドル費やした。金融機関ゴールドマン・サッチの融資でブルックリンの映画製作会社ヴァイタグラフを買収した結果、事業拡大に繋がった。このため、ワーナー・ブラザースの劇場はニューヨークに広がり、ワーナー兄弟はニューヨークのハンコックパークへ移り住んだ。
弟サムがラジオ局を買収した際、彼から音付きの映画を提案される。ハリーもBGM付きの映画を作ることを夢見ていた。その後劇場は250にも及ぶが、ラジオ局買収は赤字となった。
BGM付きの映画を求め、電話会社ウエスタン・エレクトロニック社との提携を図るも、反ユダヤ系問題でうやむやになってしまう。しかしサムの尽力もあって提携は成功となった。
ターキー映画生みの父として[]
1927年には初めてターキー映画『ジャズ・シンガー』を公開、その後『紐育の灯』、『シンギング・フール』などといったヒット作を生み出した。大手スタジオの仲間入りを果たした。スタジオは現在のバーバンクに移設され、東海岸の劇場のほとんどを買収を買収することに成功した。これがファースト・ナショナルの株式の1/3を獲得し、株主となった。1929年には国内初の国民向け映画『ノアの箱船』を公開。ハリーはマイケル・カーティスをスタジオの主要監督に任命した。
音楽出版社を買収してワーナー・ブラザース・ミュージックを設立、ラジオ事業も再開して音響特許を取得した。
第1回アカデミー賞で兄弟はトーキー映画を生み出し、新たな映画の歴史を作ったことで、名誉賞を受賞した。また、1929年に『ブロードウェイ黄金時代』を公開し、トーキー映画のゴッドファザーとも呼ばれた。純利益は上がり、撮影所も増えていった。
大恐慌[]
弟アルバートの勧めでパラマウントから俳優のウィリアム・パウエル、ケイ・フランシス、 ルース・チャタートンを雇うこととなった。世界で大恐慌が起きても、最初の年にワーナー・ブラザースは何も被害を受けなかった。この頃、兄弟はボストンの株主と訴訟を起こしていた。また、ハリーの知り合いの銀行家が殺害された事件で少しの打撃を受けた。
1929年、弟ジャックの雇った俳優ジョージ・アーリス主演の映画『ディズレーリ』がヒットし、第3回アカデミー賞においてアカデミー主演男優賞を獲得し、アーリスをスタジオのトップスターにさせた。
スタジオはギャング映画を作ることに目を向けた。『犯罪王リコ』や『民衆の敵』、『仮面の米国』などのヒット作を生み出し、エドワード・G・ロビンソン、ジェームズ・キャグニー、ポール・ムニなどといったトップスターを輩出した。
1931年、大恐慌は劇場チケット価格の高騰化を招き、スタジオは800万ドルものの損失を受けた。そこでイギリスの映画会社でイギリスを舞台とした映画作りに専念するも、結局は失敗に終わった。
しかし、F・ルーズヴェルト大統領の出したニューディール政策のお陰でチケット問題は解決、映画ファンも戻ってきた。その年のミュージカル映画『四十二番街』が大ヒットした。だが、長年製作に関わったザナックがハリーとの意見の食い違いで『紅唇罪あり』を最後に辞めてしまった。ザナックの後任にハル・B・ウォリスが製作総指揮の役職に就いた。
スタジオは当時の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストとの連携を強化した。ハーストの愛人、マリオン・デイヴィスも映画出演するようになったが、利益までには至らなかった。
翌年、バーバンクのスタジオで大規模火災が起こり、50万ドルと20年分のフィルムの損失を抱えてしまう。更にハーストの『真夏の夜の夢』も興業的失敗し、劇場を独占したとして裁判にかけられてしまった。結局それは冤罪だったが、ワーナーは多くの劇場を売却することとなった。
1935年に『四十二番街』の監督、バスビー・バークレーが死者を出した飲酒運転事故を起こし、労働組合から娘と義理の娘(早く亡くなったサムの娘)を誘拐するという脅迫電話を受けたが、組合の要求を飲むこととした。トラブル続きだったが、利益は良い方に向かった。ハリーは融資の不必要性を悟り、カリフォルニアへと移住したのであった。
翌年、科学者ルイ・パスツールの活躍を描いた伝記映画『科学者の道』とエミール・ゾラについて描かれた『ゾラの生涯』がヒットし、それぞれアカデミー賞を受賞した。
第二次世界大戦[]
ハリーらはF・ルーズヴェルト大統領と友好的であり、彼の政治を応援していた。ヨーロッパで戦争が勃発するとイタリアやドイツの配給を阻止し、『ゾラの生涯』や『戦慄のスパイ網』、『シー・ホーク』、『ヨーク軍曹』といった反ドイツの映画を製作した。
アメリカが第二次世界大戦に参入すると、戦争映画を作るようになった。『カサブランカ』、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』、『ロナルド・レーガンの陸軍中尉』、『モスクワへの密使』などのヒット作を生み出し、特に『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』の3都市プレミア上映(ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス)の売上で戦時公債が支払えるようになった。赤字続きになっても戦争映画を作り続け、アメリカ政府から功績を認められた。
しかし、スタジオに貢献してきたウォリスが『カサブランカ』のオスカー像の所有権をめぐりスタジオを去ってしまった。その後、ハンフリー・ボガートがスタジオのトップスターに輝くが、女優の オリヴィア・デ・ハヴィランドと弟ジャックの一悶着もあった。
戦後[]
1947年になると、競馬に興味を持ち、弟ジャックとともにハリウッドパーク競馬場を作り上げた。マーヴィン・ルロイと協力してサラブレッド競馬厩舎の設立や競走馬の購入などを行った。弟ジャックの散財や女癖があまりにも酷かった為、ジャックとは険悪な関係であった。従業員の話ではジャックのことで怒り、鉄パイプを振り回しながら叫び回っていたという。
1946年までにスタジオ従業員の給与は週60万ドルに、スタジオの純利益も年末までに19,424,650.00ドルに達した。ハリーは義理の息子のミルトン・スパーリングをスタジオの独立系映画制作会社の責任者として雇った。
1958年にハリウッドにて亡くなったが、その功績を称えてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに彼の名にちなんだ星がある。